本条志信 ―学生時代―

      
      
2.
       
       
       四月 新年度。

午前8時30分、中等部、高等部、一斉に授業がスタートします。

 
一時限から六時限まで、終了時間は午後3時です。

但し中等部一年生は、学校生活に慣れる期間と体力面を考慮して5時限まで、よって午後2時の終了です。

またこの学校では、自己紹介を行うことはありません。

事前に、担任、クラス委員長、クラスメイトの名前と顔写真付き一覧が、各自のパソコンに送られて来ます。

彼らはそれを活用しながら、友達関係を形成して行くのです。

新入生の場合は、一からの友達作りになります。

学校側も新入生に対しては慎重にかつじっくりと彼らの行動を注視し、入学当初の成績順の評価から総合評価に切り替えるのです。



初日、午前8時20分。中等部一年A class HR(ホームルーム)


「今日から私がこのクラスの担任です。さっそく君たちに、これから毎日提出してもらう宿題について説明します」


担任も自己紹介などしません。名前も顔もすでに周知済みだからです。


「宿題は作文。最低原稿用紙1枚の3分の2行。

月曜日が決められた課題で、火曜日から土曜日までは自由課題。

但し、今週一週間は決められた課題になります。

課題は当校運営のオンライン上に掲載、各自で確認のこと。以上」


毎日提出の宿題が作文と聞いて、まだ小学校の雰囲気を引き摺ったままの生徒たちからは、当然ながら〝えぇ~っ!〟〝面倒くさーい〟など、ブーイングに近い声が上がります。


パシーィィンンン・・・!!


いきなり黒板に細い金属棒が打ち付けられました。

差し棒です。


「静かに。授業中の私語は禁止。勝手な発言も禁止。わかりましたね」


生徒たちは担任の手に握られていた差し棒を凝視したまま固まってしまいました。

それほど差し棒のインパクト(心理的衝撃)が強烈だったということです。

またそれは、入学後初めて味わう畏怖というものの瞬間でもありました。

畏怖とは、恐れたじろぐ中にも敬意が含まれる、つまり教師としての姿勢が生徒に伝わればこそ生まれる感情です。

担任はそんな彼らの様子を教壇からぐるりと見渡すと、再び差し棒を握る手に力を込めました。

緊張と畏怖が交差する中、再び差し棒が振り上げられようとした時です。


「はいっ!」


一人の生徒が大きな声で返事をしました。


「ん?君は・・・委員長か。はい、よろしい」


差し棒は軽やかに、担任の手のひらの上で弾んでいました。


「さあ、君たちの六年間はもうスタートしているんだ、同じことを二度も注意されないように。
しっかりこれからの授業を受けること。わかりましたね」


『はいっ!』


担任の二度目の〝わかりましたね〟に、生徒たちの声が揃いました。

新入生の彼らが一番初めに学ぶことは、教師に対する心構え(敬意を払う)私語、発言、返事、すなわち授業を受ける態度なのです。

HRを終え担任が退室すると、間もなく一時限の鐘の音が鳴ります。


午前8時30分、鐘の音と共に、スッとすべるように教室の扉が開き担当教師の入室です。

水を打ったような静けさの中で、


「起立!」 「礼!」 「着席!」


中等部一年A class 委員長本条志信の声が響き渡り、授業が始まりました。



青々と生い茂る新緑の季節


広大な敷地の深い樹木に囲まれた学び舎に


新たに集う輝く瞳の少年たち


移ろう四季の中の青春行路に


胸膨らませて いざ!











「本条君!本条君!君、すごいね!みんな怖くて声が出なかったのに!」

「委員長~!すごい堂々として、カッコ良かったよ~!全然ビビッてないんだもん!」

「ホント、ホント!本条君って、すっごいなぁ!やっぱトップ入学は違うね!」


授業の合間の休憩時間、本条志信の周りにクラスメイトが集まって来ます。

トップ入学、答辞、委員長、それだけでみんなの関心を引くには十分なところにHRでの〝返事のお手本〟が、さらにみんなを引き付けます。

そしてやはりここでも、口々に〝すごい〟〝すごい〟の連発です。

山下君に同じように言われたときは、花籠作り以外否定していましたし、自分にとっては特別〝すごい〟ことでもない理由もちゃんと話していました。


では、ここでの本条志信はどうだったでしょうか。


―みんな怖くて声が出なかったのに!―


「ん~・・・何かタイミング?」


全然ビビッてないんだもん!―


「え~?そんなことないよ」


―やっぱトップ入学は違うね!―


「そうかなぁ~?あんまり関係ないと思うけど」


同じように否定はしていますが、何とも雑な対応です。

多勢に対しては適当に受け流す、そんな感じです。

ようするに面倒くさいのです。


「あ、ほらみんな、もう時間だよ。あと2分しかない」


委員長の言葉に、サッとみんな自分の席に戻り次の授業の用意に取り掛かります。

授業間に設けられている休憩時間など、あっという間です。

午前中の休憩時間は、入れ代わり立ち代わり同じような繰り返しが続いたのでした。


そしてようやく、ゆっくり親交を深めあえるのが昼休みです。

とはいえ、誰を誘おうかなとか、誰か誘ってくれるかなとか、初めてのお昼タイムはもじもじどきどきするものです。

そんな中でも本条志信には、一部の積極的な(休憩時間に言葉を交わした)生徒たちから誘いの声が掛かります。


「委員長!委員長!食堂に行こうよ!」

「10分間の休憩じゃ、ゆっくり話も出来ない・・・?」

「あの・・・えっ、委員長・・・本条君!?」

ところが、

「やったー!!昼休みだぁー!!」

椅子を倒さんばかりに立ち上がると、誘いを振り切ってそのまま猛ダッシュで教室を出て行きました。

いえ、誘いを振り切ってというより、彼らの声自体が聞こえていないのでしょう。

意識がクラスメイトたちに向いていない、と言った方が適切かもしれません。

声を掛けた生徒たちは、お互いの顔を見合わせながら呆気にとられるばかりです。


そんな中で、また誘いの声が上がりました。

しかし今度は誰にと、限定されたものではありません。


「みんなー!食堂行こうぜ!おれ、お腹ペコペコ!」


目尻がキリッとつり上がった顔つきの少年は、はきはきとした活舌の良さも加味して、子供ながら精悍さを醸し出しています。

こうして音頭を取ってくれる生徒がいると、もじもじどきどきしていた生徒たちも緊張が解れ、自ずと声を掛け合うようになり友達の輪が出来るのです。

それでも、どうしても一歩が踏み出せず、なかなか輪に入ることが出来ない生徒もいます。


「何してんだよ、ほら行くぜ。結城(ゆうき)」

「えっ・・・あ、國友(くにとも)君・・・うんっ!行く!」

見るからに内気な生徒は、名前を呼ばれてやっと笑顔が出ました。


声を掛けたのは國友君、さっき音頭を取った生徒です。


「結城って、カッコイイ名前だよな」

「え・・く・・國友君は!・・・國友君がカッコイイよ!」

何とも面映ゆくなるような二人の会話に、周囲の生徒たちから突っ込みが入ります。

「二人とも、普通だから!」

「そうだよ!全然フツー!」

どっと、二人の周囲で笑い声が湧きました。

いつの間にか内気な結城君も、みんなの輪の中に入っていたのでした。





「・・・あれ?委員長いないね」

結城君が広い食堂内を見渡しながら呟きました。

「ん・・・ホントだね。てっきり食堂かと思ったけど」

「いの一番に飛び出して、どこ行ったんだろ」

「購買部で買ってさ、自分の部屋で食べてるのかな?」

「一人で?僕だったら、やだなぁ・・・」

他の生徒たちも気になるのか、口々に言い合っています。


「どーだって、いいじゃん。そんなことより、メニュー!何、食べよっかなぁ!」


みんなが本条志信を気にする中にあって、國友君だけは全く興味なさげでした。










中等部は授業終了時より、午後5時からの夕食を挟み午後9時までが放課後です。

放課後は自由に校内の施設を使えますが、それ以降は許可なく寮から出ることは出来ません。

これは中等部全学年共通です。

但し一年生のみ午後8時30分から午後9時までの30分間、点呼が実施されます。

各クラスの委員長(中等部一年)が部屋を回って各自クラスメイトの点呼を取り、午後9時にはその日の責任者(中等部三年)に報告します。

責任者はそれをまとめ、最終的に寮の監督責任者(教師)に書類(チェック表)として提出するのです。

よって一年生は、午後8時30分には各自部屋に居なければ、自分のクラスの委員長に迷惑が掛かります。

そういったことも踏まえつつ、彼らはこの一年間で全寮制の生活規範を習得するのです。



点呼初日、午後8時30分・・・を10分過ぎた頃、


【一年A class 本条 志信】

【一年C class 山下 翔太】


ネームプレートの扉が大きな音と共に開いたかと思うと、息を切らした本条志信が飛び込んできました。


「翔ちゃん!!翔ちゃん!!ハァ!ハァ・・!迷った!!校内広すぎてやっと帰れたぁ!!」

「わっ!ビックリしたぁ!えっ・・・」

「あっちこっち花を見てたら帰り道がわかんなくなってぇ・・・点呼!間に合わないぃーっ!!」

「点呼!?ちょっ・・ちょっと待って!本条君!部屋回ってたんじゃないの!?」

「だから迷子になってたんだって!!」


山下君は彼が花好きなのは昨日で十分わかっていましたし、それ以外のことにはあまり頓着しない性格であるということもわかっていました。

ですがまさか大事な点呼初日に、花に現を抜かして遅刻するなど思いもしていませんでした。

「本条君!この学校が広いのは最初からわかってることだろう!そんな言い訳通用しないよ!」

「わかってるさ!わかってたけど気が付いたら・・・ああぁっ!翔ちゃん!今、何時ー!?」

あまり頓着しない性格でも、一応大変なことをしでかしたという認識はあるようです。

「もう8時・・15分過ぎたよ!どうしよう!どうしようぅ!」

気持ち的にすっかり我が事のような山下君と、二人して右往左往していたその時です。

「本条?いるー!?」

「誰っ!?今忙しぃ・・・あーっ!あーっ!十郎太!!」

「っ・・・!!國友だ!!名字で呼べよ!!」

クラスメイトの國友君です。

「そう!國友!國友十郎太!名前のインパクトが強すぎて名字が思い出せなくてさ!」

余計な一言で、國友君の頬が耳まで真っ赤に染まりました。

現在で言うところのシワシワネームというのでしょうか、たぶん名前を気にしているのでしょう。

ここは無頓着な本条志信に代わって、気配りの山下君がフォローします。

「く、國友君!僕、同室の山下!あの、点呼のこと!?」

「うん、15分過ぎても点呼来ないし、それに点呼前にも他のクラスの委員長たちが本条捜してたから。
・・・何だ、いるんじゃん。ったく・・・お前、おれの部屋忘れてるだろ?」


「それが違うんだ!点呼まだなんだ!本条君、校内で迷子になったらしくて今戻って来たんだ!!」

「はぁ?」

「もう20分過ぎちゃったよぉ!!どうしよう十郎太!?どうしたらぁ!!十郎太ぁー!!」

「ばっかやろー!何やってんだよ!おれは三年生の責任者に事情話しに行っといてやるから!
本条はすぐに点呼始めろ!ほらっ!早く!!始めなきゃ終わんないだろ!!」



「う、うんっ!そいじゃ、まず十郎太!よしっ、次だー!」


十郎太、十郎太と何度も名前を連呼されて眉間が峡谷のように寄っている國友君ですが、とりあえず一刻を争うのです。

駆け去って行く本条志信の背中に一瞥をくれるも、すぐさま次の行動に移りました。

「あいつ・・・まぁいいや!山下君はもう点呼済んだ?」

「うん。僕の方は早々に委員長が来たよ」

「じゃあさ、本条に点呼報告のとき絶対言い訳するなって言っといて。責任者(三年生)には、すみませんのみ!」

「それはいいけど、どうして國友君がそこまで・・・」

「どうしてって、自分のクラスのことなんだから当然だろ。あいつ、何か余計なこと言いそうなんだよなぁ・・・。
口チャックで頭下げる!な、頼んだぜ!」



この言葉から國友君は本条志信個人に対してというより、自分のクラスのことを考えての行動ということが窺えます。

目の前でもめ事が起こっていたとすると、山下君が巻き込まれるタイプなら國友君は自ら飛び込んで行くタイプのようです。


こうして本条志信の初点呼報告は15分もオーバーしてしまったのですが、機転を利かした國友君がいち早く事情を伝えていたので、


〝校内が広すぎて道に迷った〟


この学校の入学したての一年生には極めて多い【あるある事例】の一つだったことが、今回は厳重注意ということで済んだのでした。



「ただいまー!翔ちゃん!」

「本条君!どうだった!?大丈夫だった!?」

「うんっ!全然大丈夫だった!」

「おいっ!厳重注意だぜ!?全然大丈夫ってことはないだろ。二度目はないってことだから、ホント気をつけろよ!」

もう何事もなかったかのような笑顔の本条志信に、キレ気味半分呆れ気味半分の國友君が念押しするように注意しているのですが、その姿に山下君は何故か同情を禁じ得ませんでした。


( 國友君・・・わかるなぁ・・・ )


この山下君の心の呟きをもって、この先の彼らの学校生活が決定付けられたと言っても過言ではありません。










「うわぁーっ!!オランダだー!!TVで見たオランダの風景とそっくりだぁ!!」

本条志信が、チューリップ畑のど真ん中で叫んでいます。

360度、どこを見渡しても一面チューリップの花です。


季節は5月を迎えていました。

新入生たちも、ようやく学校生活に馴染み始めた頃です。



「十郎太~・・・頭痛い・・のども痛ぃ~」

「そういや結城、昼食あまり食べてなかったよな。風邪かな、医務室行く?」

結城君から、頭が痛いのどが痛いと訴えられているのは国友君です。


「十郎太-っ!昨日もめてた二人!ほらっ!取っ組み合いのケンカしてるよ!」

「ちっ!あいつら・・・結城、ちょっとだけ待ってて」

さらに他のクラスメイトからもケンカの仲裁を求められ、


「十郎太ぁ!数学のノート忘れたあぁ!!宿題して、そのまま机に置きッぱだよぉ!」

「あーもうっ!まだ20分ある!往復には十分だろ!すぐ寮に取りに帰れ!早く行けー!ダーッシュ!!」

その上に個人の忘れ物の訴え&指示まで、まさに獅子奮迅の活躍です。


「ったく、何でみんなおれに言ってくるんだよ。委員長に言えよ・・・」

「だって委員長、いっつもいないもん」

「昼休みも、最近は休み時間もいないことが多いよ?」

「ねぇ、十郎太、委員長いつもどこに行ってるの?」

クラスのみんなは委員長がいないということよりも、どこに行っているかの方に関心があるようです。


「そんなことおれが知るかーっ!!いちいちおれに聞くなーっ!!」

「十郎太~・・・ねぇ、まだぁ~・・十郎太~」

頭が痛いのどが痛いと訴える結城君よりも、はるかに苦悶の表情で頭を抱える国友君でした。

( 十郎太、十郎太言うな・・・おれは國友だ・・・ )

しかもいつのまにか、彼の名前の方がクラスのみんなに定着していることも要因のひとつのようです。

一番の原因はともかく、それは彼がクラスのみんなからいかに頼りにされ、親しみをもたれているかに他ならないのですが。


そして昼休みが終わる頃、結城君を医務室に送り届けてきた国友君が息絶え絶えに戻って来たのとほぼ同時に、本条志信も戻って来ました。


超ご機嫌に、歌声を響かせながら。

「咲いた♪ 咲いた♪ チューリップの花が~

・・・・・・どの花見ても♪ 綺麗だなぁ~♪♪ あっ、十郎太~!たっだいまぁ!」



「・・こいつ・・はぁ、はぁ・・・ふらふらしてねぇでもっと委員長らしくしろよ!!」

「え~、らしくって言われても・・・あっ、もう時間だ!先生が来るよ!ほら、十郎太!急いで着席!着席!」


間一髪、教室のドアが開きました。


「起立!」 「礼!」 「着席!」

キリリとした顔で、委員長本条志信の号令です。


國友君が言うところの〝委員長らしく〟とは少し違いますが。










入学当初の学校生活の割合は、大まかに言うと半分が教室のクラスメイトたち、半分が寮のルームメイトとの関係になります。

そこから六年間を掛けて、少しずつ友だちの輪を広げるのです。

〝輪を広げる〟というのは、そこに社会性や協調性を学んで行くということです。

勉強と並行して、彼らが学ぶべきことでもありました。



「う~ん・・・う~ん・・・うううっ・・・!」

「・・・本条君、さっきからうるさいんだけど・・・」

寮の方では、山下君がとても困っていました。

二人は明日提出する宿題をしていたのですが、その宿題というのが毎日書かされる作文です。

最低でも原稿用紙1枚の3分の2行を埋めなくてはなりません。


月曜日が決められた課題、火曜日から土曜日までが自由課題となります。


「翔ちゃん、ひどいよ。翔ちゃんはさっさと書けるから、僕の苦しみがわからないんだよ」

「苦しみって・・・オーバーだなぁ。本条君だって、自由課題はさっさと書いているじゃない」

「自由課題は自由だからさ!」

ぷぅっと頬を膨らませる本条志信ですが、彼の自由課題はこの学校に咲いている花を一つずつ、名前と色と特徴、それに付随して数行のあらまし(概略=開花時期や花言葉など)を書く。それだけです。

それだけでほぼ3分の2行が埋まります。

早い話が自分の得意分野であり、ネタ(花や樹木)は尽きることがありません。


―卒業までには、季節毎のリストが出来るよ。楽勝だねー


〝楽勝だね〟と、やや宿題の作文を舐めたような発言も、月曜日になると鳴りを潜めます。

〝決められた課題〟に対して、苦手という先入観が働くようです。

課題を前に、書く前から文句たらたらです。


例えば、今回は〝家族〟について。


「もう、何、この課題・・・家族全員について書いてたら、すっごい枚数になるよ」

「枚数が増えるのはいいんだよ。何枚になったって、思うことを書けばいいじゃない」

「・・・無理。時間が足りないもん」

「それだったら、お父さんかお母さんか、どちらか一人に絞れば?弟もいるんだろ?」

「そっか、じゃ父さんにしよっと」

これでようやく静かになると、自分の勉強机に戻った山下君でした。



「・・・やっぱ、母さんにしようかな」

案の定、10分もしない内に本条志信の大きな独り言が聞こえてきました。


さらに5分後、

「和泉にする!・・・でも和泉まだ2歳だし!可愛いしかないし!一行で終わるし!」

そしてまた始まるのです。


「う~ん・・・う~ん・・・うううっ・・・!」

「もう!結局書けないんだよね!わかったよ、手伝うよ」

はあぁ・・・とため息を吐きつつ本条志信の横に立った山下君は、片手をあごに当てて少し考えを巡らせると、ゆっくり確認するようにアドバイスを始めました。


「まず本条君の家族構成から、書いてみない?」


【 僕の家族は、父、母、僕、弟の四人家族です。 】


「家は花屋さんだよね」


【 父は花屋を営んでいます。 】


「花好きだよね」


【 僕は花が好きなので、父の花屋を継ぐのが夢です。 】


「本条君、いつもお父さんの作る花籠見てるって言ってたよね」


【 父の作る花籠や花束を見て、僕も色々作っています。とても楽しいです。 】


「お母さんは?一緒に仕事されてるの?」


【 母も父の仕事を手伝っていて・・・・・・・・・ 】


あれだけ書けないと唸っていた本条志信が、山下君の要点を絞ったアドバイスでサクサクと作文を書いています。


「弟君、早くおしゃべり出来るようになるといいね」


【 弟は2歳で言葉もまだまだですが、とっても可愛いです。早くお兄ちゃんと呼んでもらいたいです。 】


「出来たっ!」

「ちゃんと書けるじゃない」

「うん!何かあれもこれもってごちゃごちゃだったのが、翔ちゃんのアドバイスでスラスラ書けた!」

「ごちゃごちゃのままだから、出口で詰まっちゃうんでしょ。
最初に書きたいことを整理すればいいんだよ。箇条書きにして書き出すとか」


「そっか!そうすればいいんだよね!さすがだなぁ、翔ちゃん!ありがと!」

さっきも〝そっか!〟と簡単に言いながら、書けなかった本条志信です。

そこは言わずもがな、山下君もわかっています。


( でもたぶん、そんな面倒くさいことはしないんだよね・・・本条君、整理下手だもんね )


そして翌週には、また唸り声が聞こえるのでした。


「う~ん・・・う~ん・・・うううっ・・・!」

「だから、箇条書きにして書き出してみた!?」



花に囲まれ、勉学に整った環境、仲良しの友達、本条志信はこの学校を選んだことを心から喜んでいました。



夏休みになり、家に帰省すると、すぐに両親に報告しました。

まだ13歳の子供ですから、嬉しいことは黙っていられないのです。


「でね、すぐに友達になったのが同部屋の翔ちゃんと同じクラスの十郎太!」

「和泉、お兄ちゃんすぐお友達が出来たんですって。良かったわね」

「母さん、和泉に言ったってわかんないよ。ねえ、父さん、花籠持って行って正解だったよ。
翔ちゃんに作ってあげたんだ!すっごい上手だねって喜んでくれたよ!」


「そうかい。志信には良い学校だったようだね」

「うん!休み時間にはね、校内のいろんなところを見て回るんだ。ビックリするくらい花が溢れてる!」

「花もいいけど、志信は委員長だろ。委員長としては、クラスでどんなことをしているんだ?」

「委員長として?ん~・・〝起立〟〝礼〟の号令くらいかなぁ。後は十郎太がいるもん。
クラスのもめ事は、たいてい十郎太が解決してくれるしさ」



会話からも見て取れるように、本条志信が率先してするのは授業始めの号令くらいです。

父は息子に気付かれないよう背を向けて「ふぅ・・・」と小さくため息を吐くのでした。

父親ですから、息子の性格はある程度把握しています。

母はやや窘めるように話しかけました。

「お兄ちゃんがしないから、その十郎太君がするはめになるんでしょ?本来は委員長がすることなんじゃないの?
クラスをまとめるとか・・・お母さんよくわからないけど・・・」


「どうして?僕より十郎太の方がよっぽど頼りにされてるよ、僕を含めてね。
だいたい委員長なんて入学試験の成績順で決められたことだし、あんまり関係ないよ」


「経緯はどうであれ、志信にとって委員長は初めてのことだろう。
関係ないなんて言わずに十郎太君と一緒でもいいじゃないか、クラスのために頑張ってごらん」


母の言葉を一言たりとも受け止めようとしない息子に、父は優しく諭すのでした。


「にーにー、にーにーぃ!」

さすがに形勢が悪くなりかけていると感じ始めた時でした、グッドタイミングで和泉が寄って来ました。

「和泉ー!せっかく帰ってきたのに、父さんも母さんもお小言ってひどいよね。
委員長に選ばれたことも成績のことも、ちっとも褒めてくれないんだ。いずみぃ~」


兄に抱き上げられた和泉は、キャッキャッと笑い声を上げて大喜びです。

「あら、あら。和泉はまだ言葉は、わからないんじゃないの」

「気持ちは通じるもん。ね、いーずーみ!」

「ね、にーに!」

「うわっ!ほらっ!〝ね〟って言ったでしょ!」

「もう、お兄ちゃん調子いいわね」


二人の息子の笑顔に、母が笑いました。


「よーし、それじゃあ志信、明日ホテルのロビーに花を活けに行くけど、手伝ってくれるか?」

「えっ!いいの!?僕、手伝っていいの!?」

こうあって欲しいと願う父ですが、息子の良いところもわかっています。

「ちゃんと指示通りに、勝手に触ったりして花の構図を変えちゃダメだぞ」

「勝手にしないよ!絶対に勝手にしない!」

「新しい環境で一生懸命学校生活を頑張っているのは、母さんも父さんもちゃんとわかっているよ。志信、父さんからのご褒美だ」

やはり父も息子は可愛いのです。


「やったー!聞いた!?和泉!?」

「キャハッ、あーうー、うー・・・にーにー」

「母さん、和泉何か言ってる、お腹空いてるんじゃない?はい」

にーにーは、もう弟どころではありません。

「あっ、ちょっとお兄ちゃん・・・!」

都合よく弟を母に預けると、嬉しくて父にまとい付くばかりです。


「父さん!父さん!明日持って行く花はどんなのを用意してるの!?」


「にーにーぃ!うわあぁぁぁん!にーにー!」

「勝手なにーにーね。後でお母さんがメッてしておいてあげる。ね、和泉」



そんな楽しい中等部時代もやがて高等部高学年になると、父との関係も必然的に子供から青年へと変化していきます。

父の小言の心意が理解出来るようになります。

ですが、理解出来るからといって実践するかといえば、それはまた別問題です。

そこには自分なりの考えや、性格が大きく関わって来ます。

文句のつけようのない成績、花に溢れた学校、楽しい友達・・・。

素直に頷くには、満ち足りているからこそ難しい事だったのかも知れません。



『 ―お前はせっかく勉強が出来て良い学校で学んでいるのだから、その環境の使い途をもっと考えるべきだよ―


―僕は花が好きだ。これ以上の環境がある?父さんの花屋を継ぐことが僕の夢だ。
勉強は自分のためにしているだけさ―


―志信、その夢はお前の人生の余生に、父さんがとっておいてやる。
自分のためだけを考えながら暮す人生は、お前にはまだ早い―


父は眼を細め、そして言うのだ。


―誰かのために、考える人生であって欲しい―


―・・・誰かって、誰?―


―お前を必要とする人だよ―


―・・・ごめん、父さん。僕は、禅問答は得意じゃないんだ― 』



わかっていることをあえてわざと聞き、それが当たり前に返って来ることにさらに苛立つのです。

理解出来るからこそ、鬱陶しいという感情が思春期のただ中で波立つのでした。


もっとも、それが原因で家族仲が悪くなるということはありません。

父は息子を愛し、息子は父を尊敬していました。

そんな二人を優しい眼差しで見つめる母と、無垢な幼子から活発な少年に成長した和泉。

そこにはかけがえの無い一家四人の幸せがありました。


本条志信はそんな幸せの中で育ちました。










さて話を学校生活、中等部に戻します。

國友君に助けてもらいながらも一年間委員長を務めた本条志信は、その後一度として委員長に選出されることはありませんでした。

中等部では、國友君が二年生、三年生と委員長に選出されました。

ちなみに國友君は高等部でも三年間を通してA classの委員長を務め、卒業式では卒業生代表として立派に答辞も述べています。


本条志信の中等部時代は、山下翔太、國友十郎太という仲の良い友達を含め、伸び伸びとした学校生活でした。

広い校内には溢れんばかりの花々が、四季を問わず咲いています。

少し奥へ行けば、秋には林の道がイチョウの葉で埋まります。

冬の椿は鮮やかに積雪に映え、つい時間を忘れ見とれて風邪をひいてしまいました。

夏はひまわりです。小学校の頃、TVで見た地区主催のひまわり畑のすごさに驚いて、父にせがんで連れて行ってもらったことがありました。

たくさんのひまわりが整然と太陽の方向を向いて咲いている姿に、このうえない感動を覚えました。

その感動を思い起こしながら学校のひまわり畑の群生を見た時は、また新しい発見に心躍りました。

幾百本、幾千本、幾万本の1本1本が力強く天に向き咲き誇るひまわりそのものの姿でした。

そしてそれらの姿を、写真ではなくスケッチブックに収めて行きました。


美しく咲き誇る花々の陰で、枯れ行く花の姿、朽ちた根、しかしそのわずかな隙間に小さな芽が新しい命を覗かせています。

見たままの姿を描くことは、本条志信にとって唯一無心になれる時間なのでした。






学校の樹木や花の管理は、当然園芸業者がいます。

校舎やホールなどの建物からその周辺の花壇、芝生、四季折々野に咲く花々、野外のバラ園、温室のバラ園・・・挙げたら切りがありません。

どんな時も、どこの場所でも、自然にいつも花が溢れている光景は、まさしくプロの仕事です。



「そら、志信!これも持って行け!」

「うっわー!これ青バラだよね!」

「おう、よくわかったな。ギフト用なんかのブルーローズは特殊な染料吸わせて青くしてるのが多いけどな」

「僕は原色のままのが好きだよ。最初に見た時、これが青?って思ったけど、じっと見ていると青が浮かんでくるんだ。綺麗だなぁ」

「校長室に飾るんだろ、アレンジメントしっかり考えろよ」

「イエッサー!園芸部部長の名にかけて!部員は僕だけだけど!」



本条志信と喋っていたのは、園芸業者の人たちです。

〝志信〟と名前で呼んでいたので、親しい間柄ということがわかります。

広い敷地ですので、業者の人もたくさんいますし、色々な場所で作業をします。

その色々な場所に、しょっちゅう同じ顔を見るのです。

「お前、休み時間や放課後になると花壇や温室の周りウロウロしてるな。花が好きか?」

「はい!中等部一年、本条志信です。園芸が好きなので活動申請書を出して学校から許可もらいました」

「へぇ~、園芸活動ねぇ。まっ、そりゃいいけど、作業の邪魔しちゃだめだぞ」

一応注意は受けたものの、本人には邪魔をしているという意識がありませんので、作業をしている人を見つけるともう自分もその一員です。


家は花屋なので色々な花を見て来ましたが、そのほとんどが切り花です。

ですが学校では、園芸業者の人たちは土から作業をしているのです。

花に合わせた園芸用土や肥料を手伝わせてもらうことによって、植物を育てる基本を学ぶことが出来ました。

好きな事に携われるのですから、自ずと情熱や真剣さは相手に伝わるものです。

一年と経たないうちに、すっかり本条志信は園芸業者の人たちに溶け込んでいました。


その関係は卒業するまで続きました。


生徒と園芸業者〝親しい間柄〟というのは、あくまでそういうことです。

なので、本条志信が教師として戻って来た時、園芸業者の人たちは再会を喜びました。

学校横の花屋の主人に収まったり、式典やイベント行事に精を出すのも、園芸業者の人たちに教えてもらった六年間があればこそです。


「志信センセイよぉ、来週の後援会の壇上花、用意出来てるか」

「準備万端!メインは大輪のシャクヤク、それにトルコキキョウ、バラ、ラベンダーセージ、フリージア、フウセンカズラ、えと、それから・・・」

「よし!後は花の開花、温度管理に気を付けろよ。早すぎても遅すぎてもだめだぞ」

「アイアイアサー!園芸部顧問の名にかけて!部員はいないいけど!」


学生のときも先生になっても変わりません。


表向き(本編)では、学校中の植物を好き勝手放題していますが、バックにはちゃんと園芸業者の人たちが控えているのです。

もしひとつだけ変わったことがあったとすれば、それは親しい間柄から信頼関係に変わったことでしょうか。

それが大人の責任を伴うということなのです。










月日は季節と共に否応なしに流れます。

伸び伸びとした中等部生活を送っていた本条志信も、高等部に進級です。

持ち上がりですので、もうほとんどが顔見知りです。

ある程度友達関係も出来ており、クラス替えにも気持ちに余裕があります。


「A classかぁ、翔ちゃんとも十郎太とも、同じクラスは初めてだね!」

山下君と國友君、二人と一緒になれてとても嬉しそうです。

「そう言えばそうだね!それにしても十郎太委員長だろ、中等部二年からずっとだもんね、本当に凄いよね」

「フン、何が凄いもんか、オレは悟ったぜ。委員長ってのは、クラスの雑用係なのさ」

「ホント、ホント、僕もそう思う!翔ちゃんに掛かったら何でも凄いになるんだから。
十郎太の気持ち、よーくわかるなぁ・・・あ、待機時間終了!お先!」


自分の委員長の時と重ね合わせているのでしょう。しみじみと同調する割には、時間が来るとさっさと教室を飛び出して行きました。

もちろん腹を立てる人物がひとり。

「翔太、おれは本条の気持ちなんて1mmもわかんねぇからな!」

「要するに彼にとって、委員長って面倒くさいだけのものなんだよ。
十郎太はわからなくても当然だと思うよ。でも志信っち、変わらないなぁ」



柔らかな笑顔で、どちらの気持ちもわかる山下君でした。





高等部は寮も一人部屋で、中等部に比べるとはるかに規則が緩やかです。

反面、規則違反の罰則はより厳しくなります。

しかし本条志信は、中等部のときも高等部になっても、少しも窮屈に感じることはありませんでした。

好きなものに囲まれ、好きな事に集中出来、困ったときはいつも山下君や國友君が傍にいてくれました。

園芸も高等部に上がる頃には、もうほとんど玄人はだしです。

業者の人たちからも可愛がられ、重用されていました。

式典なと、本人が最後まで手伝いたいと業者の人たちにお願いすると、業者の方から時間延長を学校側に申請してくれるほどです。


しかし楽しい時間は待ったなしに、過ぎて行きます。


二年生では引き続きA classに本条志信と國友君が、山下君はD classになりました。



「ねぇ、志信っち試験期間中でも、飾り花や温室の手伝いしてるよね?」

志信っち、と呼ぶのは山下君です。

「全然OKさ。許可申請も出してるし業者の人たちからもちゃんと了解得てるし。
やるべきことをやっておきさえすれば、自由に好きな事が出来るってことさ」



〝やるべきことをやっておく〟


つまり学生の本分である〝勉強〟です。


「う~ん・・それはわからないでもないけど・・・。でもやっぱり試験期間中は控えるべきだと思うよ。
志信っちは元々成績が良いから、そこでもう満足しているんだよ」


「10番位までに入っていれば、十分だろ」

「そりゃね、僕なんかだとそうかも知れないけど、君はトップを取れる実力があるじゃない」

「僕はそこまでこだわってないし、一番になりたいなんて欲もないよ」

「みんな精一杯必死に上位を狙って勉強しているんだよ、それはこだわりでも欲でもないと思う」

山下君からすれば、珍しく強い口調です。


「・・・何が言いたいのさ」

そして本条志信は、そう言い返す他ないのです。

何故ならそれが、山下君の友達としての忠告だとわかっているからでした。

高等部にもなると、互いの考え方の違い、相手の言わんとすることなど、親しければ親しいほどわかります。

性格によっては、言い合いになったりケンカに発展したりすることもあります。


「おっ!本条志信がこんなところにいた!何だ?花でも飾りに来たのか、園芸部長さん」

こんなところとは、高等部二年スタディルームです。

そして〝園芸部長さん〟と、茶化しながら入って来たのは國友君でした。


「いたら何?そんなに驚くこと?」

「驚くっつうか、お前スタディルームになんてほとんどいたためしないじゃん。てか、どうした?珍しく不機嫌だな」

「僕だってさ、いつも鼻歌ばかり歌ってるわけじゃないさ」

「何だ、何だ?何拗ねてるんだ、こいつ。なあ?翔太」

苦笑いを浮かべる山下君に、國友君が尋ねました。

先に答えたのは本条志信です。

「翔ちゃんがさ、数学の微分・積分のところがわからないっていうから。一緒に試験勉強してたんだよ」

「志信っちに教えてもらってたんだ。さすがだね、スラスラ解いちゃうんだもん」

「・・・確かに。あれだけふらふらしているのに、成績だけはいいからな。
たまには真剣に頑張ってみろよ。あー、もったいねぇ」


同じ忠告でも、山下君と違って國友君はストレートです。


「それを言うんだったら僕のふらふらは十郎太へのハンデだね。せっかくハンデあげてるのに、もったいないなんてさ。
一度でも僕の成績を抜いてから言ってよね」


ストレートには憎たらしさで。本条志信にとって鬱陶しい話をスパっと断ち切れるのは、國友君の方なのです。


「ハンデ!?何がハンデだ!!馬鹿にしやがって!!おう!!見てろ!!絶対抜いてやるからなっ!!」


「しーっ!」「静かにしろよ!」「うるさいぞ!」


そして思惑通り、本条志信の挑発に大声で乗った國友君が周囲に睨まれたあげく、話がすり替わっているのでした。


「翔ちゃん、後は十郎太に見てもらいなよ。彼も数学得意だしさ、それじゃね」

「えっ!?おいっ、本条ちょっと・・・」

「しーっ!しーっ!十郎太、声が大きい。一緒にいる翔ちゃんにも迷惑だよ、もう。じゃ頼んだよ」

もう、と困った顔で人差し指を口元にあて、小声で後ずさりながら部屋を出て行ったのでした。



はてさて、本当に迷惑しているのは誰なのでしょうね。










中等部のときも高等部になっても、少しも窮屈に感じることなく、常にマイペースの本条志信でしたが、高等部二年の秋、初めてカウンセリング室に呼び出されました。

最初は、呼び出されるような規則違反など覚えがありませんので、何を言われるのか全く想像がつきませんでした。

カウンセリング室には、担任と校医の川上先生が同席していました。

川上先生は高等部の校医ですが、集団検診などには顔を見せませんので、医務室に行くような病気以外、多くの生徒たちは普段会うことがありません。


本条志信もその一人でした。


担任が着席を促した後、川上先生を紹介しました。

「こちらが校医の川上先生だ、カウンセリングの専門医でもあるんだよ。本条は初めてお会いするのかな」

「はい」

「私は君を中等部の頃からよく見かけていたよ。高等部の方にも業者の人達と一緒に花を飾りに来ていただろう」

「・・・はい」

少し間を置いて返事をした本条志信に、担任が話を切り出しました。

「やっぱり本条は察しがいいね。川上先生がカウンセリング専門医と聞いて、
自分自身の何かを問われると思ったんじゃないのかい。そんな返事だったよ」


花の話を聞いて、ああ、先生たちもそう思っているのかと、何時ぞやのスタディルームのことが頭を過りました。

「花に現を抜かしているから、勉強に身が入ってないとか・・・ですか」

「本条は、成績はいいじゃないか。入学以来ずっと上位を保っているし」

どうやら担任はそんなことは思っていなかったようです。

本条志信は慌てて否定しました。

「あ・・・いえ。時々、そういった事を言われたりするので。他は思い当たる節がありません」

「ふうん。君にそんなことを言うのは、クラスメイト?」

「はい」

「本条は相手に対して、茶化されているとか悪意を感じるとかはないの?」

「いえ、それはありません。中等部の頃からの仲の良い友達ですから」


ここで初めて川上先生が訊ねました。

「それじゃあ君は、彼らの言葉をどう受け止めているの?」

「それは・・・忠告・・・」

認めたくなくても、わかっていればこその返事でした。

担任は本条志信の憮然とした表情にはお構いなく、嬉しそうに呟きながら手元のノートにサラサラと記帳しました。

「うん、なるほど・・・。これはちょっと気が付かなかったな」


「そうやって君に忠告してくれる友人がいることは、素晴らしいことだよ」

川上先生もまた、にこやかな顔で頷くのでした。

本条志信には担任よりも、むしろこのにこやかな顔の方に腹が立つのです。


「川上先生、僕は学業を優先しています。その上で好きな事をしているんです。
友人たちが忠告してくれるのはありがたいですが、僕は満足しています」



「ん?」


怪訝な顔の川上先生に、親しい人以外滅多に苛立ちを見せることのない本条志信の姿がありました。

「担任の先生も、ずっと上位を保っていると言って下さっていたじゃないですか。僕はちゃんと結果を出しています」


「それから?」

川上先生は、ごく普通にその先を尋ねました。


「それから?」

オウム返しの言葉の後に、本条志信はさらに苛立つ思いを無表情に変えて答えました。

「以上です。それ以上何もありません」

「何もなければ、君は友人たちの言葉を忠告とは受け取らないはずだよ」


「・・・意味が、わかりません」

「さっき君自身が言ったじゃないか。〝僕は満足しています〟その後が聞こえなかったけどね・・・
〝そこまで余分なことはしたくありません〟・・・かな、違うかい?」


川上先生の辛辣な問い掛けに、本条志信は反論出来ませんでした。


「勉強はね、成績だけじゃないんだよ。その余分なことも勉強なんだよ。
私が君の友人を素晴らしいと言ったのは、そこのところをちゃんとわかっているからだよ」



( そんなこと、わかってる )


まさしく彼自身がわかっていることだからです。


ここで担任が、本条志信の評価を示しました。

「本条、君は勉強も良く出来る。人当たりもいいし、園芸業者の人達にも随分可愛がられているらしいね。
そんな君が中等部一年生の時以来、一度も委員長に選出されていない」


「委員長は僕の器ではありません」

「まあ、そうだね。例えその余分なところを補ったとしても、君は委員長には選出されないと思うよ。
器というより、向き不向きというところかな」



本条志信の苛立ちが、とうとう露になりました。


「余分な言葉なんていりません。要点は自分のことだけにかまけてないで、現状に満足せずもっと精進しろということですよね!」

そして自分にとって一番ネックな言葉が、ボソッと零れ落ちたのでした。

「・・・わけのわからない誰かのために」



「わけのわからない誰かのために?」

すかさず川上先生が拾い上げます。


「えっ、ああ・・父に・・言われるんです。最近、家に帰るとそんな話の繰り返しです」



『 ―誰かのために考える人生であって欲しい―


 ―誰かって、誰?― 』



「お父上は何と?」



『 ―お前を必要とする誰かだよ― 』



「僕を・・・必要とする誰か・・・」


「うん、そうだね。それを還元と言うんだよ。お父上の言葉も、友人の忠告も、今日話したことも、
そのうちになんて思っていると、時に追い抜かされてしまうよ」



時に追い抜かされる・・・気付いた時にはもう遅い。


本条志信は無言で俯いたままでした。


尚も、川上先生は続けます。


「自分を中心に取り巻く人たち、その友達、さらにその知り合い、最後は社会という構造の中で、
生かされているということに気付き感謝すれば、もっと自分には何が出来るかを考える日々が送れるだろう」



〝そのうちに〟


父がその話を持ち出すたび、心の中で呟いていた言葉を、川上先生に指摘されたのです。

まるで最初から最後まで、心の中を見透かされているようでした。


「まあ、委員長がどうこうは別に関係ない。本条、君は優秀だ。その上でこうして話をさせてもらった。
川上先生に同席してもらったのは、私の付き添いだ」


そう言って担任は、少し自嘲気味な笑顔で最後を締め括ったのでした。










本条志信は寮の自分の部屋に戻ると、倒れ込むようにしてベッドに寝転びました。


「はぁ~、疲れた・・・。何が話をさせてもらっただよ、体のいい説教じゃん」

家だけでなく、学校でも似たようなことを言われて、たぶん父兄面談で父がそんな話をしたのだろうと思いました。

それを担任が川上先生に相談して・・・


―お父上は何と?―


「うーっ!しらじらしいー!!」


あくまで想像の域なのですが、想像すればするほど、担任はともかく川上先生には腹が立つばかりです。

布団を頭から被ってベッドの上でジタバタジタバタ、何とも気が収まりません。


「・・のぶっち、・・・志信っちてば!

「うわっ!ビックリしたぁ・・・何だ、翔ちゃんか。ノックくらいしてよ」

「したよ!応答ないのに、部屋から変な音がするもんだから・・・.。
ねぇ、呼び出しどうだったの?君のことだからすごく心配してたんだよ」



「・・・翔ちゃん、僕のことどう思ってるのさ」

「えっ?・・えっ・・あ!いや、ごめんね、そういう悪い意味じゃなくて・・・」

ちょっとした意地悪にも、人の良さが出てしまう山下君です。


「ふふっ、冗談だよ。担任から〝君は優秀だ〟って言われた」


「何だ、褒められる方だったんだね。ああ、良かった。うん、僕もそう思うよ」


山下君が胸に手を当て心底ほっとする姿を見て、本条志信はため息を吐きました。

「褒められるわけないじゃん。早い話が、現状に満足せずもっと精進しろってことさ。つまり説教だよ、説教」

しかし山下君の笑顔は変わりません。

「きっと良いお説教だったんだろうなぁ」

少し羨まし気に、そして綻ぶような笑顔の山下君に、呆れるように口を尖らせて言い返すのでした。

「説教に良い悪いってあるの?しかも担任の付き添いに校医の川上先生って、有り得なくない?」

「川上先生も!?カウンセリングの専門医でもあるから、担任の先生は心強かったと思うよ。君のような優秀な生徒相手にはね」

「そんなのは担任の問題じゃん。とにかく川上先生は、な~んか回りくどい割には、
結局最後は何でもお見通しって感じでさ・・・イラつく。ああいうタイプは苦手だな」


「ふふっ、君でも苦手な人いるんだ」


「・・・翔ちゃん、もう一度聞く。僕のことどう思ってるのさっ!」

ストレスを発散するかのように、本条志信が山下君に飛び掛かりました。

「えっ?やっ!・・・痛っ、痛いってば!だから、優秀だって思てるよぉ!」

この二人の取っ組み合いは、ほとんどじゃれ合いに近いものなので迫力の欠けらもありません。

むしろ突然現れた来訪者の方が、よっぽどの迫力です。


「こらあ!!じゃれ合ってる場合かーっ!!」

ドアを蹴破るように、國友君が乱入して来ました。


「あっ、十郎太!志信っちが・・・」

「うるせぇ!!志信っちがじゃねぇ!!どけー!!翔太!!」


怒号と共に襟首を掴んで山下君を引き剥がすと、いきなり本条志信を締め上げ始めました。

「何?十郎太・・・ちょっ、く、苦しい!やめ・・・」

「何をした!!何をして呼び出されたー!!吐け!!本条志信―っ!!」

「何も・・翔ちゃん!翔ちゃん!助けて!十郎太を止めてー!」

いつもはのらりくらり適当に交わしたり茶化したりする本条志信も、さすがに鬼の形相の國友君にはかないません。

そして〝どけー!!〟と言われても、やっぱり山下君は巻き込まれる羽目になるのです。


「じゅ、十郎太!落ち着いて!委員長としてわかるけど!すごくわかるけど!志信っちは褒められてたんだよ!」

「何だと!!褒められた!?ほめ・・褒められた?いつもふらふらしているこいつが?」

山下君の必死の訴えに、國友君はポカンとした顔で静止しました。

その隙に、本条志信は國友君の手を払いのけたのでした。


「うえっ・・ごほっ!あー、もう、すぐ頭に血が上るんだから。
ふらふらしててもさぁ、優秀だって言われたよ。成績も十郎太より、ず~っと上だしね」


ニヤリと笑って、あっという間に形勢逆転です。


「うっ!ず~っとじゃねぇ!か・・かなり追いついている・・・」

「そう?翔ちゃん、ほら、あれ、いつだっけ?十郎太が僕を追い越す宣言」

「もう、二人ともやめなよ。十郎太は委員長だから自分のクラスから呼び出しがあったら心配するのもわかるけど、
ちょっとやり過ぎ。志信っちも十郎太にはすぐムキになるんだから」



やはり仲裁は山下君です。


「いや、おれも他の奴ならまだ冷静だったかもだけど、本条って聞いたから、つい・・・」

「だからすごくわかるって言ったじゃない。僕も同じくらい心配したよ」

そう言って國友君を宥める山下君に、本条志信の不毛な言葉が部屋中に響いたのでした。


「二人とも僕のことどう思ってるのさっ!!出て行けー!!」



どこにでもある十代の青春時代

優しさや思いやり 悔しさやジレンマ

語り合い時に諍い 共に過ごす日々の中で

自分は何をすべきかを考える

一人の〝人〟として

支えられていることを忘れないでいたなら

自ずと誰かを支え得ることに気付くだろう


自分を必要とする誰かを











そして彼らにとって、6回目の桜の季節が訪れました。

最高学年、高等部三年生です。


今日は國友君の部屋に集合しているようです。


昼食用に購買部で買ったパンを食べながら、國友君のパソコンで何やら確認が始まりました。


「本条‥本条・・本条・・・うおーっ!やったぁ!本条志信がいない!」

ガッツポーズでそう叫んだのは高等部三年A class委員長 國友十郎太です。


「僕は・・Cか、他には・・あっ!翔ちゃんと一緒だ!うるさい十郎太とは離れた!」

本条志信はC classになったようです。


「僕?・・あれ?志信っちの後ろ・・・え、えっ!?うそっ・・・無理だよーっ!」

画面には、高等部三年C classの先頭に、委員長 山下翔太とあります。

初めての委員長に、嬉しさよりも狼狽気味の山下君でした。


「大丈夫だよ、翔ちゃんが出来ないわけないよ。十郎太なんてずっとしてるんだよ、慣れだよ、慣れ。ねぇ、十郎太」

「お前が言えた義理か!ったく・・・。が、翔太は委員長に適任だと思う。
むしろ今まで選出されなかったのが不思議なくらいだ」



「そ・・そう?大丈夫かなぁ・・・でもありがとう。志信っちはともかく、
十郎太にそんな風に思われていたなんて、すごく嬉しい。頑張ってみるよ」


二人に励まされて、やっと山下君に落ち着いた笑顔が戻りました。



さあ、明日から新学期です。

大学受験にも本腰が入ります。


実り多き五年間の蓄積が、最後の一年で花開くのです。



Flowers 花の宴

咲く花びらも 散る花びらも

大いなる自然の 美しき営み

そこに聳え立つ 鉄の門

ぴたりと閉ざされた門扉の向こう

中を窺い見れば制服に身を包んだ少年たち

思春期の匂いが花の芳香に包まれて

厳かに漂う






「起立!」 「礼!」 「着席!」


高等部三年C class 山下君の号令が響き渡ります。


当初はぎこちなかった号令も、今では堂に入ったものです。

國友君の言った通り、山下君の穏やかな性格は、人望と加味して柔軟にC classに浸透し、委員長の資質が如何なく発揮されたのでした。

本条志信はといえば、三年生全体が受験勉強でピリピリしている雰囲気の中でも、相変わらずマイペースに花畑を散策する日々を送っていました。



桜吹雪を浴び


チューリップ畑を見渡し


ひまわりの群生の前に立つ


春を追い立てるような灼熱の夏も


木の葉を揺らす一陣の風に熱を奪われる


秋の風


ふぅっと息を吐いて空を見上げる


鱗雲が広がっていた


時がはっきり秋を告げている


いつもならゆったり眺める鱗雲なのに


卒業まで後半年と意識したとき


思い出したくない顔が自分に囁く


―時に追い抜かされてしまうよ―


だとしても


「綺麗な鱗雲だなぁ!」


反発するように大きな声で叫んだ


そして小声で呟いた



「それで十分じゃないか、今はまだ・・・」


自分に言い聞かすように










「志信っち、いる?入ってもいい?」

山下君が本条志信の部屋に訪ねて来ました。

逆パターンならすでに入っているところですが、山下君は律儀に応答を待っています。

ほんの少しして、面倒くさそうな声が返って来ました。

「・・・居ーなーいー。留守でーす」

「わかりやすい居留守だね。入るよ」


本条志信は布団に(くる)まってそっぽを向いていました。

「どうしたの?何拗ねてるの?」


「翔ちゃんさぁ、少しは察してよ。僕だって一人で考えたいことだってあるんだからさ。
それに拗ねてるって子供じゃないんだから、しいて言うなら苦悩・・・とか」


一人で考えたいと言う割には、誰かにこの悶々とする思いをぶつけたい様子がありありです。


もちろんその誰かとは山下君なのです。


「せーの、ほら!起きてよ」


包んでいた布団を剥がされて、ベッドから転げ落ちてしまいました。


「痛ってー!何すんのさ!頭打った!腰打った!足打ったぁー!」

「ごめん、ごめん。それより志信っち、志望校まだ提出してないだろ?」


「・・・決まってないのに提出できない」

全く相手にされていないと分かると、返って恥ずかしくなるものです。

一応大げさに痛いといった手前、頭や腰を摩りながら、不満気に答えるのでした。


「志信っちなら選び放題だものね、迷うよね。
でも猶予は後二日間だよ。僕のクラスでは、もう君だけだから」

「ふ~ん、委員長として嫌味付きで言いに来たわけだ」

自分の苛立ちを山下君に当たり散らす、珍しくなかなか素直になれない本条志信でした。


「ふふふっ」

「何だよ?その笑い方も嫌味っぽいよ、委員長さん」

仲が良ければよいほど、隠したくても隠しようのない自分の心の欠けらがボロボロ出てしまいます。


「志信っちに嫌味なんて、言えるわけないよ。僕がこの学校でここまでやって来れたのは、志信っちと十郎太がいたからだよ」

いつもの山下君の笑顔でした。

その笑顔からは、本条志信に対するけれん味のない言葉が紡ぎだされます。


「成績もそこそこ、ついて行くのに精一杯だった僕が、こんな規律の厳しい学校で自由と楽しさを感じられたのは、
二人のおかげだと思ってる。いつか伝えたかったんだ。後半年だね、間に合ったよ。ありがとう」



「・・・ずるいよ、翔ちゃん。全く僕のことを無視して、自分の気持ちばっかり・・・」

言葉とは裏腹に、込み上げる熱い思いを隠すように山下君から目を逸らす本条志信でした。


それは嬉しさと恥ずかしさ。


後半年、同じことを思っても、自分は感謝の気持ちに気付かなかった。

むしろ恥ずかしさの方が、大きく本条志信の心を占めるのでした。


「うん、ごめんね。いつかいつかって考えてて、そしたら不思議に今しかないって思ったんだ。
だからって無視なんてしてないよ。真剣に聞くよ、志信っちの苦悩・・・」


「僕の苦悩?ああ・・山下翔太に負けたこと。に、気付いたこと」

「えぇっ?・・・もう!またそうやってごまかすんだから。僕が志信っちに勝つのは、整理整頓くらいだよ」


山下君には、本条志信の苦悩はわかりませんでしたが、いつもの晴れやかな笑顔の志信っちに戻っているのを見て、少し安心しました。

自分の伝えたかった言葉の何かが、彼の心に通じたのならそれで十分です。

どだい苦悩の理由など、言葉に出来るほど浅くはないと思うからでした。



「今頃やっと認めた!整理整頓!中等部の時なんて、散々ばかにしてって言われてさ」

「うん、今頃やっとわかった。志信っちが委員長になれないわけ。
だって委員長ってみんなの雑用係だろ、それなのに雑用作る方なんだから」


「あはは、翔ちゃん最高!それ、十郎太にも言ってやろうよ!十郎太がずっと雑用係なわけ。
十郎太は何にでも首を突っ込む、片付け上手だから!」

「ダメだよ、十郎太に余計なこと言っちゃ。何かっていうと、志信っちはすぐ十郎太を挑発するんだから」


いつの間にか、少年のようにはしゃぐ二人でした。

もう少年と呼ぶよりも、青年に近い二人なのですが。


中高一貫全寮制男子進学校。

彼ら十代の思春期は、まだまだ少年と青年の間を行ったり来たりするのです。



「それじゃ志信っち、くれぐれも志望校提出忘れないでよ」

入念に念押しをして、山下君は自分の部屋に戻って行きました。



「志望校かぁ・・・ああ、面倒くさい」

何と本条志信は志望校の提出を忘れていたのではなく、この時期になっても決めていなかったのです。

成績という確固たる根拠を元に〝取りあえず提出して、後で変更すればいいことだ〟と、いつものようにのん気に構えていたのでした。


しかしそのツケは、思わぬところで自らを追い込むことになるのでした。



高等部三年は二学期から午後の授業に自主学習が設けられています。

目指す大学に向けて専攻科目を取る生徒たちや、図書室、スタディルームで自習する生徒たちなど。

自主性を育てることで、より一層勉学への理解を深めるのです。




高等部三年 午後の自主授業。

図書室では、専門書を広げてノートを取っている生徒たちの多い中、本条志信は普通に読書をしていました。

もちろん読書も自主学習のひとつに認められています。


ただこの自主学習の時間を、読書に充てる生徒はさほどいないというだけのことです。

そんな彼に、一人の生徒が声を掛けて来ました。

もちろん、小声で。

「本条君。珍しいね、こんなところで会うなんて」

「ん?あー、結城じゃん!何か久し振り!」

彼とは、中等部一年の時一緒のクラスになったきりです。

内気で大人しい性格は変わりませんが、彼も立派に成長していました。


「しーっ!本条君ってば、声が大きいよ」

近くにいた何人かの目が、彼らに向けられています。


「えへへ、ごめんね、うるさくして。端っこ行くから、ほら本条君詰めて、詰めて」

「え~、何で席移動するのさ・・・」

周囲を気遣う結城君に対して、ブツクサ文句を言いながらも従う本条志信でした。


「ごめんね、ここなら話も小声なら大丈夫だから。僕、一度二人で本条君と話してみたかったんんだ。
こんなチャンス逃したら、もうないなって思って」

「チャンスって、知らない仲じゃないんだから、話があるならいつでも部屋に来ればいいだろ」

「そう言うと思った。本条君ならきっと簡単なことなんだろうな」

結城君は嬉しそうにそう言うと、何を読んでるのと訊ねました。


「ん~・・・大雑把に言えば、心理学の本かな」

「本条君、心理学興味あるの?・・・うわぁ・・原書だ。やっぱり本条君は凄いな」

「辞書を置いてなかったら、凄いって言ってよ。僕は心理学なんて信用してないんだけどさ、
〝知らないのに何故そう言える〟とか言う奴がいるんだよ。だからその根拠探しさ」


「へぇ~、本条君にそんなこと言う奴いるんだ、誰?」

まさか結城君が具体的に名前を聞いてくるとは思ってもいませんでした。


( 部屋には訪ねて来れないのに、こういうことはすんなり聞けちゃうんだな・・・これって心理学的にどう解釈するんだろう・・・ )


と、心の中で思いながら、ごく一般的な話しにまとめるのでした。


「あー・・あの、別に誰ってことじゃなくて、え~・・ほら、何かにつけ反論してくる奴っているだろ。鬱陶しいよねぇ~」

「うん、いる、いる、そういう奴。やっぱりさすがだなぁ、本条君は」

何がさすがなのかよくわからない本条志信でしたが、彼にとってそんなことを言う奴というのは一人しかいません。


その鬱陶しい奴が〝川上先生〟とは、口が裂けても言えるわけがありません。



「ところで本条君は、志望校はどこを提出したの?やっぱり偏差値1位の国立?」

「う~ん・・・あそこはあんまり好きじゃないんだよなぁ・・・」

「えぇっ!まだなの!?あっ・・・」

つい出た大声に、結城君は慌てて口を塞ぎました。そして焦るように小声で伝えるのでした。


「僕はてっきり十郎太と同じところかと思ってた。いつもふらふらして花ばかり触っているのに、
成績順位はヒトケタから下がらないって。十郎太がよく僕に言ってたから・・・」



「ふ~ん・・・十郎太がね・・・。ということは、あいつの志望校はさっき結城君が言ってた大学?」

「うん、そうだけど・・・。本条君提出期限わかってるの?」

「もちろん、今日までだろ。僕のクラスの委員長はしっかりしてるからね。二日前にちゃんと太い釘差しに来たよ」

「ならいいけど・・・急いだ方がいいよ」


「うん。結城君のおかげで取りあえず志望校決まった、サンキュー」

「えっ!もう!?たった今、まだだって・・・」

「今度は部屋へおいでよ。ここじゃ気を使ってしゃべれないもんね」

本条志信は口早に言いながら席を立って行きました。


後は取り残された結城君に、周りの目が向けられるのでした。

「気を使ってる割には十分うるさかったけどな!」

「ひえぇぇ・・・ご、ごめん!ごめんなさいぃ・・・」










本条志信は職員室にいました。



生徒たちはオフィスセンターの事務局に、各自で志望校記入の用紙を提出します。

提出期限内であれば、変更は何度でも可能です。

また期限を過ぎた場合でも、理由を申請して認められれば変更可能です。

人生の大事な分岐点です。学校側も柔軟に対応します。

但し、期限ギリギリの生徒がいたとしても、学校側からの催促は一切ありません。

そこをフォローするのは生徒たちであり、学校側が行うのはそういったことを自ら行える生徒を委員長として人選することなのです。

山下君がそうであったように、國友君もきっと同じように提出、未提出の確認をしていたことでしょう。



「相変わらずギリギリだな、本条は」

担任の机には、数時間前に提出した本条志信の提出用紙がありました。

「すみません」

「何故謝るんだ?期限内なんだから何の問題もないだろう?」

担任は提出用紙を本条志信の前でヒラヒラとさせて言いました。


( この遠回しな言い方がむかつくんだよなぁ・・・。さっさと言えばいいのに )


そう思いつつも、この学校では先生と生徒の間は、厳しく一線を引かれています。

そんな心の内はお首にも出さず、淡々と無表情に聞くのみでした。

「では他に何か・・・」

「ふうん、他に何か、か・・・」

更なる担任のもったいぶった言い方に、本条志信もさすがに無表情とはなりませんでした。


 ( だからそれを聞いているのにさ。結局提出が遅いってことに落ち着くんだ・・・ )


本音が顔に出たところで、担任はバンッ!と机を叩きました。


「まだわからないのか!他の何かはお前だ!本条!志望校の意味は!わからなければ辞書を引け!」


担任の発した言葉は、一瞬で本条志信の表情を変わらせました。


さらに担任は続けます。

「偏差値1位の国立大、本条なら大丈夫だ。滑り止めも必要ない。自分でもそう思ったから、第2、第3志望校は無記入なんだろ。
学校側としても大いに期待したいところだ。但し、君が本当に行きたいと思っているならね」



担任が責任を持って自分のクラスの生徒一人一人に注ぐ注視力は、この学校の教育の原点ともいえるものです。

そこから生まれる厳しさを、生徒たちは学校生活を通して体感しながら成長して行くのです。


〝取りあえず提出して、後で変更すればいいことだ〟 


そう思っていたことが担任には、いやこの学校では通用しないことにやっと気付きました。


言葉を見つけることが出来ず立ち尽くす本条志信に、担任は構わず返事を促します。


「受理してもいいか?」


「・・・変更は可能と聞いています」


「可能だよ。最後の最後まで頑張っても志望校への偏差値に足りない、
あるいは家庭の事情で希望の大学は諦めざる得なくなった。私たちの力不足でもある」



つまり締め切り後の変更は、その多くが苦渋の変更なのです。


本条志信は、のん気に構えていた自分の甘さを後悔したのでした。

彼の成績という確固たる根拠は、単なる驕りにすぎなかったのです。


「どうする?」

黙ったままの本条志信に、担任は問い掛けます。

指示ではなく、自分でどうするのかを決めさせるのです。


碌々考えもなく、十郎太と同じ志望校を書いただけです。

ただ本人は行く気がないのでいずれ変更を出すつもりで。


しかし変更は可能でも、担任の話を聞いてしまった今となっては、自分の考えていたことがいかに恥ずべきことだったのかを痛感するのでした。


答えを待つ担任に、本条志信が答えるべきことは一つしかありません。


「もう一度・・・志望校提出のやり直しをさせて下さい」

「そうだな。君が思っているほど、私たち教師はまだそこまで愚かじゃない」

「愚かだなんて!そんなこと思ったことありません!」

「そう思っていなくても、結果としてこれが証明しているだろう?
君のこの一枚で、その後の変更で、何人の生徒が変更を余儀なくされると思う?違うか?」



「・・・・・・・・・」


答えに窮する本条志信に、担任は諭すように注意を与えるのでした。


「本条は簡単に出来ても、出来ない生徒の方が多い。少し考えればわかることだ。
君は人当たりも良く優しい、だが自分本位だ。まあ、それに気付いたからやり直しを許すんだけどね」



「・・・すみませんでした」


「うん、猶予は三日間。謹慎して今度は真剣に考えなさい」


「はい。ありがとうございます」

頭を下げながら、差し棒の体罰程度は覚悟していた本条志信でしたが、思いの他軽くすんだことにホッと胸を撫で下ろしました。


「さてと、それじゃ本条は今から寮に戻って必要な物をカバンに詰めて、通用門で山下と合流。
山下には、きちんと見届けて私に報告してもらうのでね」



「え?・・・謹慎というのは寮の・・・」

担任は本条志信のホッとした表情を見逃しませんでした。


「何を言ってる。指導部の宿舎だ。向こうで指導部の先生が待っている」



本条志信に与えられた厳しさは、痛烈な叱責と憐憫さえ含んだような戒めの言葉。

さらに見届け人を付けられるくらい全く信用されず、一瞬の安堵さえも剥ぎ取られるものでした。